2018年11月11日日曜日

彼らとの「関わらない、引き受けない、受け取らない」は彼らの作り出す仮想現実との関係

この世はマトリックスだ

彼らの作り出す仮想現実とは彼らのマトリクスだが、意味の分からない展開が多い。
そしてなぜか、私たちの現実とリンクさせて、私たちの責任で、こういう酷い世の中になったなどと言う、何故か意味不明な罪の擦り付けを行ってくるパターンもある。

また以前に、お前は俺やら、こいつは俺みないなことを言ってきたり、夫婦や家庭、恋人、家族にまでなってきたり、いろいろと自分の子供などとも言ってきたり、本当に意味の分からないことで私たちと関わらりのないことを、あたかも何か関係しているようなことを言ってくる。

そして、そうした彼らがとてつもなく変な人である場合が多い。

そんな彼らのマトリクスとは「関わらない、引き受けない、受け取らない」と言い続けなかければ、変なビームが我々の体に忍び寄り、次第に痛みへ変化したり、とんでもないビームが我々を襲うことになる。

明晰夢や飛んでもない妄想など、彼らとのかかわりは、まるで私たちの思考の一部となってやってくるが、彼らと我々は全く異なる種別であり、まず関わることはあり得ない。
そしてとても非常な種別や、とんでもない危ない種別までさまざまである。

私たち人間にもアフリカの文明とは程遠い者たちと、文明人とでは、あまりにも大きな差があるように、彼らは文明とは程遠い生き物であった場合、とんでもないことに巻き込まれる可能性があるが、なぜこのようなことをされているのか?は、また異なる種別がいたずらに関わっているからかもしれない。


とにかくどちらも危険生物には変わらず、何方ともに、「関わらない、引き受けない、受け取らない」としておかなければ、本当に危険な行為はエスカレートするばかりである。

エーリアンビームハラスメントと言い続けて来たが、本当にこのビームが私たちの生活にどれだけ影響を与えているかは、不明であるが、何やら実験のような状態が続いていた時期もあり、生活保護連中は皆この対象にされてとんでもない目に遭っていたり、中には真に受けてとんでもない事を仕出かし、事件になったり、この怪しいどこぞの何かも判らず、神や精霊や、守護霊など、ありもしないものや、良く知りもしないまま、良いものとして、いい加減な情報を流し続ける行為が後を絶たないが、本当に危険な目に遭ってから気が付いては遅いのである。

人間同様に多種多様でいろいろなタイプと性格あり


以前から聞いて居る内容はこの世と限りなくリンクさせて、未来予想のような行為を試みようとする流れがあるが、全く見当違いであり、またこの世の中との関わりがあるかのようなことを言っていた時期もあったが、本当に彼らのマトリクスがそういうものであるのであれば、100人いれば100通りの自分都合だけの、世界観があり、本当に都合の良い世界が構成されることを意味する。

もしも、タイムマシーンのようなもので、未来がコントロールされているとするなら、100人100通りである。そんなバカげたことなどあり得ないことである。
そしてそのような行為を頻繁に繰り返しているとするなら、決して失敗しない、とてつもなく自分には素晴らしい世界を構築することも可能であるが、そんなこと不可能であり、またそうした行為を誰かが邪魔をしない訳でもない。マトリクスとは、ゲームの中の世界観のようなバーチャル的なものであり、マインクラフトと同じようなものであるなら、ゲームを一生懸命努力しても何も得られないのと同じで、ゲームに付き合う行為は無駄そのものであり、それにより危険な思いをするなら、このような危ない遊びや、危険なビームに早く気が付くべきである。


本当にビームは私たちに似せた世界観をリンクさせるような行為をしてきたとき、危険度が高まる。私たちは彼らの遊び道具にされてしまう前に、彼らから離れる術を身につけなければならない。

 「関わらない、引き受けない、受け取らない」彼らの意味の分からない仮想現実を真に受けて、行動したり、言いなりになったところで、ロクなことが無い。
一時、試しにいろいろと行動をしたこともあったが、全く馬鹿らしいことばかりであった。 その後、危ないビームが強まり、痛みに変わったり、頭の中がもの凄い騒ぎとノイズが襲ってきたこともあったが、本当に馬鹿らしいことばかりで、何度も警察に行き、何度も相談しに行ったが、結局は病院へ行けと言われることばかりであった。

心のクリニックでも、幻聴と言われるが、これは実際に起こった人にしか分からないが、本当に危ないことであるのはこの危険なビームの餌食になってからである。

再び変なビームが強まることもあり、そうした時には 「関わらない、引き受けない、受け取らない」と連呼するしか術はない。

どうやってもこのビームから逃げる術はない。
 「関わらない、引き受けない、受け取らない」
 「関わらない、引き受けない、受け取らない」
と何度も何度も言い続ければ去っていくなら、そう言い続けれる他に術はないのである。

本当に危ないのはビームがとんでもないパワーを持っていることであり、私たちは意図も簡単にこのビームにより悪戯されてしまうことである。

生き地獄もあれば、このビームが私たちの何であるは、知るすべはない。
とにかく危ないものであることは知っている。
とんでもない結果ばかりであることも知っている。

些細なことで使われるとととんでもないものであることも知っている。
とてつもない大きなパワーであり、私たちにはとてもではなく神々しいものである。
しかし、私たちはそうしたものに関わることの危険性を訴え続けなければ、本当に壮絶な世の中ばかり見せられたこと、そして全知全能ではない、不完全なものをコントロールすることなど不可能であると言う、現実。

とんでもないことばかりであった。
「関わらない、引き受けない、受け取らない」
 危険なものであるには変わりない。









2018年7月26日木曜日

人間同様に多種多様でいろいろなタイプと性格あり

人間は皆同じではない。変な輩もいれば、終止おとなしい人もおり、様々です。

テレパシーの向こう側も同じで、いろいろなタイプと様々な性格の人たちが大勢おり、はじめのころは揶揄われてばかりいました。

悪戯好きや、遊びに来た人、本当に多くの、テレパシーの向こう側の声がしますが、終止、変なことに関わることを辞めて、関わらないと連呼するようにしたのは、そうした変なテレパシーの声の者たちの言いなりとなり、よくわからない者たちを神と崇めたり、仲間や友達と思い始めると、危険が伴う恐れがあるためであることは、現実社会で考えれば、当たり前のことである。

よくわからない者たちと仲良くや、通りすがりの人を友人と思う訳もなく、何もわからないものを簡単に信頼することなど現実社会ではあり得ないのであれば、このテレパシーの向こう側の声が、何であるか?わからないのであれば、簡単に受け入れることをするべきではないはずである。

私が、このような行為を続けているのは、やはり危険そのものであり、やがては自分の身を滅ぼし、危険をもたらされたときに、こうしたものを、どうすることもできない 、コントロールなど絶対不可能であると知ってからでは遅いことを意味している。

本当に危険な行為をする人たちもたくさん存在し、そうした者たちには、「危ないことには関われない。」と訴え続ける他に、自分の身を守る手段は無いのである。

この世の私の魂があと僅かであれ、今後、これにより苦しめられることが永遠に続くことを考えれば、本当に地獄と言うものが存在し、私たちは昔から多くのことを知り、昔ら語り継がれている歴史や宗教の教えと言うものを考えれば、ただ真っ当に、真面目に生き、本能を極力最小限として、煩悩を抑えることを真面目に取り組むべきである課題である。

私がこのままこうした行為を一生続ける意味も、またあるのかもしれない。
多くの人が私のブログを読み、このような不思議なものを正しく認識して、自分の生き方を変えて、本能のまま愚かに生きることを辞めるならば、宗教的なものと同じ、人としての在り方を新しい視点ではあるが、まっとうに真面目に生きようとする人が増えれば、それはそれで意味があるのかもしれない。

本当に、ばれないければ何をしても良いなどと、愚かなことを考えるのは、今すぐにでも改める必要がある。
昔から「お天道様はお見通し」や「閻魔帳」と言うことを私たちは、皆知っているように、私たちのすべての行いは、全て管理されていることも知る必要がある。

私たちは監視されているのか?ということだが、そうかもしれない。そうでなければ、このテレパシーの向こう側のものも管理される必要があり、更に上にあるものも管理されていなければ、全てはうまく機能しないとするなら、監視、管理されているのが、知的生命体としての社会、法律、秩序と言うものであるなら、ごく当たり前のことであることも簡単なことである。

野良犬やサバンナの動物と一緒であれば、管理される必要もないだろうw
しかし、私たちは文明社会に生きているのであれば、管理されているのはごく当たりであり、年金や、社会保障を受けるためには、すでに私たちは文明に管理されて生きているのであれば、普通のことである。


 お天道様はお見通しである。閻魔帳は存在してる。私たちの記憶と言うものは残されていたり、私たちの行いは全て、見られていることは、明確な事実であることである。

こうしたことを知ったうえで、どう生きるか。真面目に考える必要がある。






2018年6月30日土曜日

人類の歴史とお供え物

最近、食べものを残したり、食べ忘れることが多々あります。

昔は、冷蔵庫は空っぽになっていましたが、それでも緊急時、災害時の非常食として、お徳用チョコレートは常備していました。
その習慣はいまでも続けていますが、最近、物忘れが激しく、特に食べ物を食べ忘れることが多々あります。パンや弁当などなど

しかし、そんなものが彼らに必要なのでしょうか?
いつも疑問に思うことがありますが、しかし、人類の歴史を振り返れば、お供え物という習慣があり、食べ物が捧げられているという事実があります。

そして私の実家にはお仏壇があり、ばーちゃんは、いつも山盛りのご飯を仏壇にあげるのが日課になっていました。

そういうご家庭が昔は当たり前だったのですが、最近はどうなんだろうと思いますが、私のところにいるこの幻聴の人たちもご飯が必要なのか?不思議ですが、最近は本当に物忘れが激しく、こうしたことが多々あります。

もしも、本当にそのような習慣が必要であれば仕方がないので、定期的にお供え物的なものをしていこうか、悩んでいますが、 本当に困ったものです。

とりあえず、最近はお菓子の量を増やしたり、食べないものを捨てたりと、大量に捨てられているのですが、貧乏なので、それほどゆとりはなく、どうせならお金持ちの家に行って欲しいものですが、本当に困ったものです。

たまにお寺さんの側を通るとまんじゅう食ってくるといっていなくなる時も多々あります。
本当によくわかりませんが、これは何なのでしょうか?
本当に謎ですが、人類は全員で、こうした不思議なものにお供えをしたほうが良いのかもしれません。とにかく昔の家庭はどこへ言ってもそうした風習があったと思いますが、最近はそういうものがないので、みんなお腹を空かしているとのでしょうか?

本当にわからないのですが、人類の歴史を考えれば、何故か、お供え物というものがあるのは、なんなのだろうか?不思議ですが、しかし、山へ行けば美味しい山菜や果物がたくさん実り、田舎へ行けば捨てるほど、野菜がそこかしこに栽培されています。そうしたものを食べていたほうが、よっぽどうまいと思うのですが、何故か、加工品を欲しがるのは何なのか?本当によくわかりません。
 
また、毎日コンビニやスーパーで大量に捨てられているはずで、そうした食べ物も大量にあるはずです。とにかく、神棚があるなら、必ず新鮮な食べ物をお供えものとして上げるほうが良いのかもしれません。

ご家庭では、冷蔵庫が神棚となっているので、あれば食べずに、お供え物として残しているものがあれば、それらはもしかしたら彼らが必要としているのかもしれません。

本当に謎ですが、どうやらお供え物として食べ物を欲しがっていることは間違えないようです。
歴史を考えるなら、お供え物は食べ物であり、本当に多くの間、そうしたものに食べ物を捧げてきた歴史はあります。

2018年6月9日土曜日

危険なことに関わらないこと、真面目に生きること、人として成長すること。

長い間、関わらないと言い続けてきた。
その意は、危ないこと、危険な行為などなど、変なことに関わらないこと、引き受けないこと、受け取らないことで、自分の身を守れることである。

危険な行為に関わらないの次につながる言葉は、やはり真面目に生きること。
因果応報を考えるなら、その見返りを求めてはいけないにせよ、きっと良いことに繋がるのである。

真面目に生きることは、決して損ではない。

真面目に生きた次に繋がる言葉は、人として成長を意味しています。
もしも、輪廻があるとすれば、人として次の成長も意味しているのかもしれません。

私たちは、人間として、あまりに個人差があるのは、そうした積み重ねなのかもしれません。

もしも、人間として成長していければ、次の成長はとても飛躍的に良い結果につながるのかもしれない。

私たちは、現生を真面目に生き、人として成長をしていくことで、また来世で、成長し続ければ、きっといい結果につながっていくはずである。

私は、そう考えています。
既に、私たちはこうしたことを、教えて貰っていたのです。すでに宗教と言うものの教えでは、当たり前のように、私たちに教えを説いていたことであり、当たり前のことなのですが、こうしたことを信じる人も信じない人もなかなか、来世があると言われても、全く信じることはできないのも事実で、欲望に負けて生きる人も出てくるのですが、性格と言うものが個々にあるように、私は昔からこうした、地獄や真面目に生きることの意を考え続けて来た方ですが、もしかしたら、こうしたものも導きの一つなのかもしれませんが、人として成長することを私自身も望んでいることではあります。

そして、私たちはこうしたテレパシーを通じて、様々な不思議な体験をして、来世と言うものも満更嘘ではないことを知っていくことを考えれば、この先も、危険行為に関わることなく、引き受けることなく、何も受け取らず、真面目に、人として成長を続けていくことが、来世へとつながらることを意味しているのであれば、積極的に私たちは人として成長を続ける必要があります。

私自身、完璧な人間ではなく、それは聖人君子のようには生きてきてもおらず、幼少期から現在に至る、いまでもすべての行いが真面目であるとも言い切れないのですが、人と言うものは性格や個性はどんな人でもあるように、私は大きく道を外さないように人として生きているのですが、やはり道を誤ってしまった人も中には居るはずです。

そうした人も未来の自分を築いているのは、現在の自分であることを忘れてはいけないともあり、どんどん悪い方向行へ進めば、どんどん深みにはまっていくことも意味しています。

こうしたテレパシーの私利私欲な利用は決して自分には、プラスになるとは思えないのは、危ないことの連続であったことを知っているからであり、本当にこの分からないビームは私たちを苦しめるものにも変貌することを知る必要があるのです。

人として成長することは、ビームを利用しなくても、真面目に生きることで、簡単に成し遂げることができるのです。それはお金や、裕福さとは次元が異なる、私たちそのものの個性、性格、知性などなど、様々な教えがあるように、こうしたことは様々な宗教の教えにあるように、人として成長を続けることは、私たちの未来をきっと明るいものにしてくれることを意味しているのです。


危険なことに関わらない、真面目に生きること、人として成長すること。そして更に言えば、尊敬される人になることだが、高望みする必要はなし。




2018年4月28日土曜日

もしも宇宙人による侵略戦争なるものがあったとするならあなたはたちはどうするか?

宇宙人が私たち地球人と戦争をすることが起こった場合、あなたならどうするか?

このテレパシーの向こう側の正体すら分からない者たちとどう向き合うか?

私の教えてもらった答えは、危ないことには、関わらない、何も引き受けない、何も受け取らないです。

これだけですが、関わらないことで互いは不快にもならず、互いの存続が継続することができるとするならば、とても簡単なことです。

私は人間であり、人間のことは良く分かります。
人間であることはとても野蛮で、狂暴であることを自覚しています。
歴史を知れば、その凶悪性はとてつもなく非道であり、恐らく自分勝手で自分さえよければそれで良い。そんな人がほとんどであるのは明確です。

本当に、危ないことは接触から始まるとするならば、関わらないことの重要性は計り知れない。

私は神でも無ければ、救世主でもない。
しかし、向こう側から私に救いを求めてくる、そして感謝されることがある。
そして、メッセンジャーとしてのボランティアとしての任務のようなことさえも教え込まれた時期もある。そして未来人のようなとても紳士的な口調で語り掛けてきた者たち、そして時には攻撃的に痛みを与えてくる者たち、何者かは分からないが、互いの運命は共同体のように不幸になれば、お互いが不幸になり、幸福に向かえば、互いは救われるとも聞いた。

メッセンジャーや語り部、ボランティア行為のこうした役割は本当であれば、それすら関わりたくないことだが、私たちはすでに互いの交信を何度となく行ったうえで、それらの安全で最適な選択をするべき答えを得たはずである。

関わらないこと、引き受けないこと、受け取らないこと。

宇宙人との接触が危険であることは、知っており、私自身人間の感情というものは常に揺れ動き、些細なことで揺らぐことを重々自覚している。

そんな野蛮人が互いのプライドと誇りを犠牲にするはずもなく、お互いは何方ともに朽ち果てるまで争いを辞めることはないだろう。

そんな絵空事とあったとして、私の書いていることが、全て架空の妄想ごととしても、あなたならどういう答えを出すだろうか?

そんなことも考えてみて、自分なりに答えを得たなら、それでも良いが、それにより巻き込まれるのは、本当にいい迷惑である。

仲良くする?ともに共存を模索する?何か互いに協力する?互いを利用する?一方的に従わせる?彼らの言いなりになる?彼らに背き、全てを逆を行う?

人の価値観はそれぞれであり、いろいろな答えを持つことがあるだろう。

しかし、私自身は、テレパシーの向こう側とは、関わりたくない。何も引き受けない、何も受け取れないし、受け取りたくない。

互いが関わらなければ、世界はたったそれだけで平和になれることもあると思う。

嫌な奴は五万と存在しており、そんな連中と関わるだけ、面倒ごとが増えるだけである。

戦争が起きれば、ごみのように消し去れるほどのテクノロジーを持つものでも、それを簡単に使えば、チリ一つ残らない、人類は居なくなったとも聞いた話である。

 本当に、感謝される行為があるとすれば、何も関わらないことで、互いは不快にもならずに平和に、穏やかさを保てるのであれば、それは関わらないことが一番である。

しかし、一人で生きている訳ではない、常にテレパシーの向こう側とつながっている状態が続いているなら、どうすればいいのか?

関わらないの一点張りでは、済まされない、私自身の私生活もある。
本当に、困難を極めるが、私からは彼らに何も関わらない、ごく普通に生活を送り、特に何を請求することもなく、引き受けることもない、指示することもなく、指示されることもない、とにかく私は私の日常の生活を続けるだけであり、関わらないし、引き受けないし、何も要求したり、受け取ることもないように、していくしかない。

自分のためでもある。それが向こう側の人のためでもあるなら、それはとても良いことなんではないだろうか?

本当にしんどいだけだが、リアルに戦争が起きれば、それどころではない。
私たちリアルに生きているものが、苦しむのは目に見えて明確である。
世界戦争は些細なことで起こりえる。そして彼らと関われば、ろくなことが無い。
本当に、危険なことは、私たちの思考は全て筒抜けであり、ろくなことを考えなければ、ろくなことにならない。因果応報、良くも悪くもすべては自分に降りかかると考えた方がよいだろう。


2018年4月17日火曜日

この世はマトリックスだ。

今住んでいる世界がマトリクスではありません。
現実です。

ではマトリクスとは何なのか?
それは私たちの未来なのかもしれません。
そして私たちは永遠の命を手に入れたとするならば、そこは現実の社会ではなく、マトリクスなのかもしれません。

そしてマトリクスにもたくさんの世界観があることでしょう。
天国や地獄、そして電子刑務所と言うものもあることでしょう。

マトリクスの世界は何であれ、私たちの未来なのか?もっと別の星の話なのかもしれません。

しかし、私たちはすでに多くのことを知っており、情報を得ており、またこの世での生活を規律正しく生きようと努力して誠意いっぱい一生懸命に生きています。

それは皆、教養と道徳からであり、決して本能では生きてはいません。

裏の顔と表の顔があっても、決して裏の顔では生きてはいないのです。
そこにはやはり何もわからなければ何をしてもいいと思って生きている人と誠意いっぱい人間として正しく生きようとする者の差が出るわけですが、人は10人10色と言うように様々な価値観で生きています。

私たちの未来が無くなると困るのは誰なのか?
そしてそうした危険な行為が起こった時、私たちはどうなるのか?

よく考えなくても誰もが理解するはずです。

私たちは、危険な行為をしない。危険な行為とかかわらない。危険な行為を引き受けるない。
本当に危ないのは、私たちの知らないところでも沢山起こっており、実に多くの犠牲があったとしても、最後に何も残らない、全てが破壊されてしまう行為があったとするならば、そうした危険な行為を行うものに制裁が下ることは容易に想像がつくは話であり、私たちがこうしたビームの危険な行為に関わっていくならば、制裁があるとすれば、ビームにより見返りが来るのは当たり前の話である。


私が一時的にもの凄いビームの餌食になっていた時期があったが、そうした時期はビームに翻弄されていた時期があり、全て自分の行為とは別に操り人形のようにビームの言われるままに行動していた時期が数か月あった時期がある。主に睡眠時、横になっている時に言われるままに土下座したり、立ち上がったり、どこそこへ向かえと言う指示に従っていたりもしていた時期もある。

そうした指示に従って行為することそのものが、人間ではない状態になっており、制裁を受けた原因でもあると思う。本当に危ないビームが私を苦しめたのはそのころである。

その後、危ないことに関わらないようにとの助言から、常にテレパシーの向こう側には関わらないと繰り返し言い続けてきたことで、現在ではそれほど煩い音は聞こえなくなったが、それでもまだまだ危険な痛みを感じるビームが時折、存在しており、私たちは常に監視されていることも理解している。

とにかく未来や向こう側の危険があれば、私たちそのものも危険なことを意味しており、私たちが彼らの導きにより、平和を手に入れているとするならば、彼らが平和に生きていける世の中を、今度は私たちが協力してほしいとのことも聞いたことがあり、共に生きている理由はそうした危険な世の中があってはならない。

未来に危険が起こることは現在の私たちも関係している。
簡単に例えるならば、現在今の私たちの生活は、過去の自分の行いによるものであり、当たり前のことを言っているだけの話であり、今後の未来の自分の生活は、今現在の私たちの行動によってすべてが決まるものである。

当たり前のことですが、私たちが地獄へ行くのも、天国へ導かれるのも、自分次第と言う訳です。

本当に死後と言うものを信じるも信じないも自分次第ですが、私のような幻聴が聞こえる人や、寝ていながら映像を見ている夢を見る人そうした不思議なものを誰しもが経験して、こうした情報を得て、たわ言と考えるか、自分の今後の生き方を考えるか、すべては自分が決めることであり、私はこの場でこうした情報を提供したところで、自分の生活をどう決めるかは、自分次第なのです。

しかし、地獄や天国、因果応報、それらの多くの不思議な単語や意味を誰もが知っており、この世にそうした不思議な言い伝えや存在を知らない人はいないし、多くの情報を得て、生きている訳であり、今更考えるも何も、無いのですが、興味があるのであれば、自分の経験からではなく、歴史を学び、様々な宗教の教えを考え見たり、調べてみるのもこのことと直結してることです。

歴史を考えるならば、本当に私たちは昔からこうしたこと多くの情報を得て、現在の平和を手に入れているのです。




2018年3月29日木曜日

死後の世界

やはり死んでから地獄に落ちる者、天国に行ける人。

そんな話は昔から言い聞かされて生きていた訳で、誰一人否定しません。
私たちは無意識にこういう不思議なテレパシーで知っているのかもしれません。
気が付いていない人も気が付いて居ても、本能に生きてしまう者も、死んでからの世界があることを、子供のころから、ずっと聞かされて生きてきたはずです。

年を取れば取るほど、因果応報も身に染みるほどよく分かります。

死んでから私たちは別の次元に行きますが、その時に地獄へ行くもの天国に向かう人が分かれる。
私は生きているうちに何故か、知ってしまったのですが、何故だか、分かりません。

テレパシーができる人とできない人がいます。
とは言え、テレパシーの向こう側の人が何者であるか?は分かりません。
しかし、子供のころから彼らと話しているような記憶がある人は気が付いてないだけで、何度も話しているのです。

彼らとの会話は、自分には妄想のような時間かもしれません。
夢をよく見る人は彼らと接触しています。

本当に気が付かないのですが、生きている内からそんなことを知る人は少ないのですが、私は知っているのです。死後に、地獄と言う場所があり、天国と言う場所があることを。

生きているうちは真面目に生きるべきです。自分が不快に思うことを相手にするべきではありません。

本当に死んだ後に困るのは自分自身です。

私たちは、何度も何度も聞かされており、気が付いて居る人が多いはずです。
死んだ後に私たちがどうなるか?

考えただけで、幸せになる人、ゾッとする人。
罪を重ねれば、それだけ苦しみは増すことでしょう。
本当に恐ろしい試練と、想像を絶する苦しみを味わうことになるのです。

私が知っている地獄は輪廻と言うものでも体験することになるのかもしれません。
砂漠を永遠歩く動物や虫たち。

本当に私たちは死んでからも世界があることは、このテレパシーが存在することを知っている人たちがよく知っていることです。

本当に生きているうちに私腹を肥やし、他人を不幸にする行為をしたものには、やはり因果応報と言う言葉があるように、全ては自分自身に返ってくるでしょう。

生きているうちだけが人生と思ったら大間違いです。
生きている時間など逆に数十年足らずで、その人の残りの膨大な時間を苦しみに変わると考えた方が良いとも聞きます。

たったの数十年で自分のすべての人生を無駄にするのは、生きていてもよくある話。
真面目に生きるべきです。

2018年1月10日水曜日

永遠の命

現代でも、未来でも人間はきっと不老不死を目指すでしょう。
永遠の命は人類のひとつの目標でもある。
不老不死とはどういうものか?

きっと肉体は邪魔なだけでしょう。
我々の死因の原因はほとんどが体が原因です。
もしも、脳だけが生き続ければ良いだけなら、クラゲのようなものに脳を納め、酸素と血液の循環をさせれば、劇的に寿命は延びることでしょう。
そうしたときに彼らは、肉体を持たず、ゴーストとなり、私たちの社会に浸透してくるかもしれません。

しかし、別に私たちの世界に浸透しなくても、漫画のソードアート・オンラインの世界があるのもありだ。そのほうが映画マトリクスそのものだろう。

もしかしたら、私たちが永遠の魂を得ようと思えば、私たちの死後、彼らの手によって魂なる私たちの遺伝子が転送コピーされて、輪廻やゴーストになることも出来るのかもしれない。

私たちが知っている地獄、天国というものもやはり存在するのかも知れない。
本当に、私たちは何かの導きによってこの世界を構築しているとしか、思えない。

現代でも、犯罪者が多く存在する世の中に、江戸時代や刀のような刃物を腰にぶら下げていた時代、それこそとんでもない輩ばかりの、危険な時代でも、平和に人々が暮らせたのは、何かしらの導きがあったから他ならない。

 昔から地獄へ落ちる話、極楽浄土の話など、私たちの知っている多くの物語は実在するとしか思えないのが、最近の感想である。

しかし、ここに書かれている妄想じみたことも、多くの人はそうした話は一度は聞かされ、信じる信じないは別として、何故だか皆、このような情報は知っており、精一杯一生懸命にまじめに生きようと努力をしているはずである。

そしてこの妄想じみた話を聞いても、誰も驚かないし、誰も馬鹿にはしないだろう。
私の場合、このテレパシーが始まったばかりのころ、地獄の話ばかり聞かされ、私自身は3丁目とからかわれたり、天使と悪魔の話が盛んに行われていたことを思い出す。

このブログを「地獄」や「悪魔」、「天使」で検索すれば多くの過去ログがヒットするはずである。

そして、テクノロジー犯罪では、何故かいつも「創価学会」の名が出てくるのは、そうした仏教や極楽浄土の話、説教臭いことばかりだったからなのかもしれない。

とにかく私たちはこうしたものがあることを実は子供のころから教えられ、別に驚くことなく、そうした存在の有無を信じる、信じないは別として、多くの知識は共有していたのである。

まじめに生きることが馬鹿をみる世の中ではない。
そう実感している。

また生き地獄もやはり存在する。
生き地獄とはビームによる制裁はやはりとてつもない苦痛と痛み、そして死ぬことも無く、精神を蝕まれていくのである。

本当の苦しみは死んでからも続くと考えるならば、本当に恐ろしいことである。
地獄が無いなんてあり得ないのである。

本当に驚く事実ではあるが、大して驚かないのも事実である。

こうした内容を読んでいる人がどれだけ信じる、信じないは別にして、多くの知識を既に知っている人たちにとっては大して驚かないだろう。
逆に若い若年層や世間知らずの者たちがこうしたこと事実を知って己の今後の生き方をどう考えるか?
そうした人のためにもこうしたブログがあれば、道を誤ることなく、真っ当に、そしてまじめに、他人を不幸にする行為をしないように務めるように努力するほど、影響を与えられるか、否かは別にして、多くの情報を得て、考えて欲しいものである。

2018年1月6日土曜日

今でも十分凄いが、私たちの未来があるのであれば、きっと私たちの未来はもっと凄いのだろう。

私自身、何かしらの力が左右して、この世界を気づきあげてきているのではないか?と考えているが、そのことを否定し、もしも、私の考えていることとは間逆で、私たちだけの力でここまで、世界を発展させえて、文明を気づき上げたとする。

正直、どっちがどうでもいいことであるが。

この先に答えがあるとして、私たち人類がこのまま進歩し続けるならば、さまざまなことがどんどん可能になるだろう。
そうしたときに、私たちはきっと過去のことに興味を持つはずである。
もちろん未来の私たち人間が存在するのであれば、SFのような話も本当に現実になるのだろう。

しかし、その時、私たちはこの平和をどう維持させるか。
そしてこの先が無くならない努力を行うはずである。

私自身は、宇宙人と言ったが、私たち人間の未来人や時空を超えてくるものたちは皆、私からしてみれば、宇宙人である。

また宇宙に出てしまえば、みんな宇宙人である。なにも未来人は地球に居ない、月生まれや、火星生まれもたくさんいるのだろう。

本当に現代では、想像を絶するものたちである。

そして人間そのものは何なのか?
私たちの進化はこの数年程度で劇的に進化を遂げている。
そしてこうも考えることが出来る。

何故、私たちは今まで出来なかったことが出来るようになったのか?
何かしらの力が左右しているのではないか?

しかし、そんなおとぎ話や推測ばかりしていても仕方がない。

私たちは過去から現在、そして未来、今後もこのようなことが永遠に続く限り、世界は続いていることを意味している。

そしてこれまで、記録されている、文献、宗教、悪魔や天使などの空想話、地獄や天国、死後の世界、そして輪廻、因果応報、そんな与太話も実は満更ではない気がする。

記録に残された意味がある。

そして私たちは現代に生きるのであれば、今の世界でどう立ち回るか、平和にこの世界が永遠に存在するためには、どうすればいいのか?

そんなことはこれまで、たくさんの説教を聞いた通りであり、歴史を振り返れば、私たちの行い方は明確である。

日本人として、私が教わった生き方。
それは次の通りである。

国民の義務
学び、労働し、納税する。

そして法律を遵守し、法と秩序を守ること。
決して危険行為を行わない。

そして日本人であれば、誰に教わったわけでもないが、必ず知っている。
108煩悩である。
108つの除夜の鐘である。

そんな当たり前のことを行えば良いだけで、未来は平和で安心な社会が形成されていく。

特に特別なことをしなくても良い。

私自身、人に説教をするほどのものではない。
この向こう側の者に、釈迦に説法とも言われたことがある。

とにかく何を言っても無駄であり、何を問い、何かを競っても、現代の私たちには分からないことだらけである。

教えられたことは、へんなことに関わらないこと。
受け取らないこと、余計なことをしないこと。
へんなことを引き受けないことである。

テレパシーは本当に時折、へんなことを言うときがある。
あるものは、隣に居るものの振りをして、独り言のように文句言ったり、私たちをけなしたり、おちょくったり、へんなことを言ってくることもある。

そしてそうした行為を真に受けることそのものが、危険な行為であり、私たちのことを試したりもするとも言う。

私たち自身が危険人物であるか、否かを試しているのかもしれない。

本当に、意味がわからないことが続くこともあるだろう。
しかし、教えられたことを守り、いつも通りの生活を続けていくしかない無いのである。

私自身の今までの人生は何一つ知らない、気が付いていない人生であった。
しかし、残りの人生は、何かに気が付いた人に変わったが、この先も気が付いているが、正直、何も知らないほうが楽な気がしてならないので、知らずに無視して行く他に無い。

本当に、気にすることは、関わることを意味する、そしてそんな幻聴に翻弄され、苦しみを与えられることは真っ平御免である。

本当に何のことは意味が分からないが、これまで通り、普通に生きていくだけである。

2018年1月3日水曜日

宇宙船に手を振って乗り込む人たち、山積みのスーツケースそしてその後

私が見たというのは、実は夢だけで見たわけではない。
夢となって記憶するものもあれば、それ以外に起こっていたことである。
起きていても、目に見えるのである。
それは、頭に描くようなイメージとは違う。目に見えるのである。

現在は、声も小さく、そうした目には写るものが無くなり、ほっとしているが、5年前のこれが始まったばかりのころ、とんでもないことばかりが起こっており、とても信じてはもらえないことばかりが、現実社会とリンクして起こったのである。リンクと表現するほかに無い。

このことを書くのは初めてではあるが、見たことをありのまま記録する。

そして誤解されないように、私の血液検査の結果表をこのブログにアップしたいくらい変な薬物も薬のようなものも行っていない。まあ何を思われても良いが、とにかくありのまま記録する。

覚えている限りでは、私の意識はあり、いつものようにベットに横たわっているとき、机に座っているとき、さまざまな現象が見えるのである。

見えるといっても現実社会のいつもの自分の部屋に居ながら、何故かミニチュアのようなものや、透明ではあるが、容が見えるのである。
なんだか不思議な言葉では言い表せないことだが、見えるのである。
色はない。なんと言えばいいのか、無色透明ではあるが、見える。

 私のことをどう思うか、そんなことはどうでもよく、私が経験したことをありのまま記録しておく。

何度も書いたが、宇宙船に乗り込む人の中には女性が居た。
誰かに会いに行く様子。しかし、ぼーっとしており、思考能力もなく、何の危機意識もない人や、手を振りながらノリノリで乗り込む様子、そんな宇宙人のような人間のような人でもあった。また別のシーンではそうした宇宙船のようなところにスーツケースがたくさん置かれており、子供は親についていくほか無いが、実は行きたくない様子。

そしてそうした行為そのものが危険であること。
私たちは人間社会は差別の塊である。同じ国の中でも、学歴や職業で、上下関係をつけたがり、差別し、見下したり、ののしったり、平気で行うのである。

そして私たち人間は野蛮であり、私たちは常にからかわれ、サルの鳴き声を聴かされ続け、アホ子と常に馬鹿にされながら行き続けるという。

彼らは相当のIQを持ち、私たちは彼らとは全く足元にも及ばないなか、行き続けることになる。

彼らとの対立や、彼らとの子供たち、いわゆるハーフと呼ばれる人たちは更なる迫害を受け、差別の対象になる。はやり危ないことをするのは、互いがあまりに異なる種の場合、とんでもないことをするのは、お互いの危険分子たちであり、どんどん危険な行為が行われ、そして私たちの社会は文明とはいえない、ただの輩の群れと化した、欲望と本能だけで生きる馬鹿ばかりの危険な社会に変貌していく。

 私が生きたこの社会には別のものが存在するが、そうしたものは実はテスト的に私たち人間とは別の社会とが重なるように、別のものたちが仮想的に形成した、目に見えない社会が存在するが、しかし、それが現実になることはない。

あくまでもテストとして人間と文明を共にしたときに起こりうる危険性を把握するためにあるといわれている。

私が繰り返し、書き続ける、「関わらない、引き受けない、受け取らない」この言葉は私たちが他の文明と関わることの危険性、何かしらを受け入れたときの危険性、何かしらを交わったときの危険性、そして危ないビームとの関係、このようなリスクしかない危険なことばかりを私自身は聞かされ、見せられ、そしてビームの餌食となり、危険な目に遭い続けたことを身を持って経験して、とてつもない痛みと苦しみ、そして苦痛を受け続けたため、私は「関わらない、引き受けない、受け取らない」と頑なにこうしたものを拒み続けている。

私が体験したことの中に、こうしたビームは悪意あるものが、この力を使いとんでもないことを仕出かしてからが、地獄と化す。そして偽者の知識人たちと学者たちがこの世を謝った方向へ向かわせてからが、この先にある危険なことばかり起きる文明とは程遠い、社会を形成していくことになる。


ビームは全てを不幸にする。何もかも無くなり、そしてやがては何も残らない。それは核兵器と同様に全てを無にしてしまうもののひとつであるという。

危険なことに関われば、我が身の命どころか、他人をも巻き込み、不幸をもたらしてしまう。危険なことに、関わらないこと、そして引き受けないこと、そして何も受け取らないことは、何故か、学者に向けられた言葉でもあった。
こうしたものを好奇心だけで、真実を求めて、研究し、どんどん危険なものを構築して、開けてはならない、パンドラの箱のような私たちを絶滅に導くものを、追い求める行為を続けてからが、危ないことの始まりとある。
そうした行為を行ってしまった研究員の話、そしてやはり研究職への憧れと地位などの欲望だらけの欲ボケ、色ボケ連中には要注意の話が永遠に続いたのである。

欲ボケ、色ボケにより未来は絶望と化す話が永遠と続いたこともあった。

私が聞いた単語で2018年と言うものが何故か、とても近く、そしてとても危ないことが起こる年であることでとても印象的であった。

とにかく何事にもいつ時、いつの時代も、色ボケ、欲ボケで足元をすくわれないようにしなければ、この世界はとても脆いとある。

何か分からないが、自分だけの問題ではなく、全てはつながっており、こんなブログに何を書いても何を言っているのか?という戯言にしか思われていないのも事実であるが、本当に危険なことに関わらないこと、そして何も引き受けないことが身を守る方法であることは確かなことである。

そして何故、私が?
こんな目に遭わなければいけないのか?
そんな疑問ばかりであったが、どんな危険な社会であれ、世界が存在しており、その社会がどんなに危険であれ、普通に生活を営んでいたとするものが存在して、いきなり存在の危機となった場合、それが私たちのような関わらないことから発生した場合、私自身がかれらの脅威となることも考えられる。

じつに複雑ではあるが、私がそうした訴えを実施したことで、社会が変貌してしまい、無くなってしまう未来もあるということである。

実に脆く、ちょっとした変化で大きく舵が変わってしまうとすれば、そうした理由から私自身が彼らから迫害され、攻撃対象となったのかも知れない。
しかし、私はいきなり攻撃対象になり、何も分からず、いきなり強力なビームの的となり、迫害を受けたのである。

そこには、私自身、このようなことに一切、気が付いておらず、何もしなかったことそのものが攻撃対象になったことも考えることが出来る。

とにかくいきなりとんでもない目に遭わされ、本当に不思議なものに翻弄されたときでもあった。

とにかくこの幻聴や音響や周波数が突如亜空間から湧き出してくるこのようなもの、そのものが危険なものであり、とんでもないものであるのは事実であり、このことに関わらない、引き受けない、何も受け取らない。そうした知識や理論、法則などに関わらない、引き受けない、受け取らないことが自分のためであることは事実であり、そうして置けば、このビームが消え、安息と平穏と災いが去っていくことは間違いの無い事実である。

元東大教授が長い間、このビームに拘束され、とても悩んでいた話も聴いた。本当に意味がわからないが、そんな話ばかりされていた時期もある。

本当に関わらないことであり、聴かないこと。そのときに三猿のことも記録している。

深くは聞かないことであり、見ないこと、そして言わないことである。
ここに書かれている私自身の話はたいしたことではない。

このビームと言う、音響が亜空間から突如現れて消えるものの追求や、想像を絶する数々のものの追求をしたときに、何かが変わり、そして最後には何も残らないという最後だけは知っておく必要はあると、これが始まったばかりのときにしつこく聞かされた話である。とにかく危ないことの連続だった。

しかし、今もなお続いていることを考えるならば、いい続けていく他になく、こういう行為は、過去から続いているものであれば、この先もあり続けるのであろう。
とにかく危ないことは避けて、面倒ごとに関わらないことが、災いを避けて通る、最も簡単な方法であることは明確である。

2018年1月2日火曜日

本当に謎だらけで、恐らく一生分からない謎のものである。

昔から言われている神様や仏様に供える、お供え物。

そんなものが必要なんだろうか?
もし、そのようなものが必要だとするならば、この世に私たちと同様に、存在して、そうした食べ物を必要とする人たちがいるということになる。

お供え物についてなぜ、そのような行事が続いているのだろうか?

そして私たちはそうしたものを用意した方が良いのだろうか?

お供え物は食べ物であるが、そうしたものをわざわざ用意して何故、神棚、お仏壇にささげるのだろうか?

本当に謎であるが、そういう風習がわが国だけではなく、信仰心の強い国では今も続いている。

話は変わるが、私自身の体験を述べるなら、お供え物というものは意識したことは一切無いし、お供え物を用意したことも無い。
ばあちゃんが、お仏壇に毎日ご飯を上げて、おせんべいなどのお菓子を置いていたくらいはあるが、私自身は一切、そうした行為を行ったことは無い。

しかし、よく言われていたことと、私自身が経験したことの中で、こうした行為が始まってからは、なぜか、食べ忘れてしまい、捨ててしまう食べ物が多くなったのも事実である。

食べないでお供え分だけ別途残して置くという行為を何故か、行われており、冷蔵庫の中の食べないものや、食べ忘れてしまったもの、そうした食べ物に執着する行為もこのテレパシーの言葉から良く聞いたことである。
しかし、何故、この世にある物質をどうして欲しがるのだろうか?

もしも、この世に見えない何かが存在する、又はこの世のものを転送している、又はこの世のものを必要としているとするならば、この世にある食べ物はスーパーマーケットに行けば幾らでも手に入るはずである。
山に行けば美味しい果物や木の実、きのこや山菜など食べるものは幾らでもある。
農園畑に落ちてしまった果物はたくさんあるのである。
よくその落ちた桃などの下にカブトムシを取りに行ったものである。
毎日ほぼ捨てられている量が大量に出ているはずである。
そうしたものを、無断ではあるが、食べていればいいはずである。

しかし、お供え物にこだわるのはなんだろうか?
また個人個人から受け取る、又はお供えのものしか受け取らない理由があるのだろうか?
そしてそうした供えられるものに腐敗や、賞味期限や、鮮度といったものも存在しないのも事実である。
お仏壇に上げられたお米は1時間もすればカチカチである。
生ものであれば、常温で一日置けば 腐ってしまうものであるが、何故かそうした行為が続いている。そんなものを必要としているとは、到底思えないにも関わらず、絶えず続けている風習がある。

そして、そうしたお供え物に美味しいものはほとんど無いのも事実である。
いつも米や饅頭、古いものや、お正月で言えば、鏡餅である。
最低限のものばかりで、チョコやアイスや人間がいつも食べている美味しいものが供えられていることはほとんど無い。

もしも、先ほど書いた必要とするものが居たとして、そうしたものを転送しているとするなら、無限に美味しいものを増殖させることも可能なはずである。転送が可能なら、コピーは可能だろう。

本当に謎だらけであるが、私自身、そうした行為を、私自身、今後どうすれば良いのか?考えていたところ、結局、あーそれ僕が食べたかったのにーと言う言葉や、それも食べたいという意味のわからない言葉が聞こえて来たときに、私自身、何も口に出来なくなることを意味している。
そうしたときに、やはりこの言葉に翻弄されて、この見えないものに関わることを意味して、とても危険なことを意味しているのであれば、今までどおり、何も気にせず、何も考えずに、関わらず、引き受けず、お供え物などしない、いつも通りの意識しない生活に戻る必要がある。

お供え物や信仰心がない私にとって、とても不思議な出来事でもある。
中世やインドでは、パンや食べかすを業と床に落として食べたとあり、そうした行為も一種お供え的なものといわれたこともある。

しかし、私たちが捨てているものを本当に欲しがるのか?
私たちが食べ残したカップラーメンの汁など誰が欲しがるのか?
もしも、食べ物を必要としているのであれば、もっと極上のものを食べに行っているに違いないはずである。

そんなことを気にするだけ無駄なことである。
パンくずや、カップラーメンの残り汁なんぞ誰もいらないというのが答えである。
食い残しなんぞ誰が欲しがるのか?誰がどう考えてもへんな話である。

とにかく意識せずとも、何故か彼らは私たちの食べ物を欲しがるときがあるが、本当に謎である。食べずに捨ててしまうものが増えてしまったのは事実である。忘れてしまうのか、私自身がこうした行為の恩恵にあやかっているのか?本当にこの行為が何なのか?本当に謎だらけである。全く意味がわからないが、昔からあるものであることは間違いないことである。

とにかく、危険なことがないことを祈るばかりである。
教えられたことは、関わらないこと。そして何も引き受けないこと、受け取らないこと。
とにかく危険や災いが無いように、こちらから関わらないことである。