最近、食べものを残したり、食べ忘れることが多々あります。
昔は、冷蔵庫は空っぽになっていましたが、それでも緊急時、災害時の非常食として、お徳用チョコレートは常備していました。
その習慣はいまでも続けていますが、最近、物忘れが激しく、特に食べ物を食べ忘れることが多々あります。パンや弁当などなど
しかし、そんなものが彼らに必要なのでしょうか?
いつも疑問に思うことがありますが、しかし、人類の歴史を振り返れば、お供え物という習慣があり、食べ物が捧げられているという事実があります。
そして私の実家にはお仏壇があり、ばーちゃんは、いつも山盛りのご飯を仏壇にあげるのが日課になっていました。
そういうご家庭が昔は当たり前だったのですが、最近はどうなんだろうと思いますが、私のところにいるこの幻聴の人たちもご飯が必要なのか?不思議ですが、最近は本当に物忘れが激しく、こうしたことが多々あります。
もしも、本当にそのような習慣が必要であれば仕方がないので、定期的にお供え物的なものをしていこうか、悩んでいますが、 本当に困ったものです。
とりあえず、最近はお菓子の量を増やしたり、食べないものを捨てたりと、大量に捨てられているのですが、貧乏なので、それほどゆとりはなく、どうせならお金持ちの家に行って欲しいものですが、本当に困ったものです。
たまにお寺さんの側を通るとまんじゅう食ってくるといっていなくなる時も多々あります。
本当によくわかりませんが、これは何なのでしょうか?
本当に謎ですが、人類は全員で、こうした不思議なものにお供えをしたほうが良いのかもしれません。とにかく昔の家庭はどこへ言ってもそうした風習があったと思いますが、最近はそういうものがないので、みんなお腹を空かしているとのでしょうか?
本当にわからないのですが、人類の歴史を考えれば、何故か、お供え物というものがあるのは、なんなのだろうか?不思議ですが、しかし、山へ行けば美味しい山菜や果物がたくさん実り、田舎へ行けば捨てるほど、野菜がそこかしこに栽培されています。そうしたものを食べていたほうが、よっぽどうまいと思うのですが、何故か、加工品を欲しがるのは何なのか?本当によくわかりません。
また、毎日コンビニやスーパーで大量に捨てられているはずで、そうした食べ物も大量にあるはずです。とにかく、神棚があるなら、必ず新鮮な食べ物をお供えものとして上げるほうが良いのかもしれません。
ご家庭では、冷蔵庫が神棚となっているので、あれば食べずに、お供え物として残しているものがあれば、それらはもしかしたら彼らが必要としているのかもしれません。
本当に謎ですが、どうやらお供え物として食べ物を欲しがっていることは間違えないようです。
歴史を考えるなら、お供え物は食べ物であり、本当に多くの間、そうしたものに食べ物を捧げてきた歴史はあります。
2018年6月30日土曜日
2018年6月9日土曜日
危険なことに関わらないこと、真面目に生きること、人として成長すること。
長い間、関わらないと言い続けてきた。
その意は、危ないこと、危険な行為などなど、変なことに関わらないこと、引き受けないこと、受け取らないことで、自分の身を守れることである。
危険な行為に関わらないの次につながる言葉は、やはり真面目に生きること。
因果応報を考えるなら、その見返りを求めてはいけないにせよ、きっと良いことに繋がるのである。
真面目に生きることは、決して損ではない。
真面目に生きた次に繋がる言葉は、人として成長を意味しています。
もしも、輪廻があるとすれば、人として次の成長も意味しているのかもしれません。
私たちは、人間として、あまりに個人差があるのは、そうした積み重ねなのかもしれません。
もしも、人間として成長していければ、次の成長はとても飛躍的に良い結果につながるのかもしれない。
私たちは、現生を真面目に生き、人として成長をしていくことで、また来世で、成長し続ければ、きっといい結果につながっていくはずである。
私は、そう考えています。
既に、私たちはこうしたことを、教えて貰っていたのです。すでに宗教と言うものの教えでは、当たり前のように、私たちに教えを説いていたことであり、当たり前のことなのですが、こうしたことを信じる人も信じない人もなかなか、来世があると言われても、全く信じることはできないのも事実で、欲望に負けて生きる人も出てくるのですが、性格と言うものが個々にあるように、私は昔からこうした、地獄や真面目に生きることの意を考え続けて来た方ですが、もしかしたら、こうしたものも導きの一つなのかもしれませんが、人として成長することを私自身も望んでいることではあります。
そして、私たちはこうしたテレパシーを通じて、様々な不思議な体験をして、来世と言うものも満更嘘ではないことを知っていくことを考えれば、この先も、危険行為に関わることなく、引き受けることなく、何も受け取らず、真面目に、人として成長を続けていくことが、来世へとつながらることを意味しているのであれば、積極的に私たちは人として成長を続ける必要があります。
私自身、完璧な人間ではなく、それは聖人君子のようには生きてきてもおらず、幼少期から現在に至る、いまでもすべての行いが真面目であるとも言い切れないのですが、人と言うものは性格や個性はどんな人でもあるように、私は大きく道を外さないように人として生きているのですが、やはり道を誤ってしまった人も中には居るはずです。
そうした人も未来の自分を築いているのは、現在の自分であることを忘れてはいけないともあり、どんどん悪い方向行へ進めば、どんどん深みにはまっていくことも意味しています。
こうしたテレパシーの私利私欲な利用は決して自分には、プラスになるとは思えないのは、危ないことの連続であったことを知っているからであり、本当にこの分からないビームは私たちを苦しめるものにも変貌することを知る必要があるのです。
人として成長することは、ビームを利用しなくても、真面目に生きることで、簡単に成し遂げることができるのです。それはお金や、裕福さとは次元が異なる、私たちそのものの個性、性格、知性などなど、様々な教えがあるように、こうしたことは様々な宗教の教えにあるように、人として成長を続けることは、私たちの未来をきっと明るいものにしてくれることを意味しているのです。
危険なことに関わらない、真面目に生きること、人として成長すること。そして更に言えば、尊敬される人になることだが、高望みする必要はなし。
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