2016年12月31日土曜日

テレパシー、幻聴を知る人でも、これの本当の恐ろしさを知らない

脳への直接的な問いかけができることをよく考えて欲しい。


脳だけではない、体へのあらゆる箇所へのアクセスが可能な状態を考えて欲しい。

本当に危ないことだらけであり、脳へのアクセスは、人間を意図も簡単に操ることができることを、知る必要がある。


私たち人間は、こうした行為を知らず知らずにされていることを知る必要がある。

私たちは、時に「閃き」や「突然の思い付き」など、言葉が思い当たる経験をしているはずである。

そうした突如湧き出て来た言葉は、私たちとは別の者が私たちにアクセスしている状態であることを知るべきである。

そうして、そうした言葉や直観や閃き、感と言う意味の解らないものを信じたり、自分の考えや、あたかも自分が感じたことと受け取らない方が良い。


私たちは操り人間、ロボット人間と言われているものに近い存在である。

本当に向こう側のものが何であるか?すら分からない。
安易に、自分自身を信じることすら危うい状況であることを、知る必要がある。


直観などと言うものを信じず、閃きなどと言うものや考えは、一度メモか、何かに取って置き、後で冷静になったときに、見直し、検討する、検証する、考えてみることで、本当に突如湧き出て来た言葉の意味が正しい事なのか?を客観的に判断して考える必要がある。


私たちは、生命体へのハッキング行為が、遠い未来や、超科学力が発達した未来人たちには可能であることを知っているものたち、またハッキング行為をしている者たちでも、彼らの文明が続く限り、さらに未来人たちが彼らが行っている行為を、さらに監視している社会も存在することを知っているはずである。彼らが行っている行為が、可能であるなら、その先の未来でもそうした行為が続いていることは、分かっているはずである。

以前に、ドーナツ頭や、ネットワークで脳が繋がれている状態と書き記したが、こうした行為をしている側の未来でもまた、こうした行為が続いている限り、彼らも監視対象であり、こうした悪戯行為や、生命体ハッキングを受けていることになり、順繰り巡り巡って、結局は、自分にしっぺ返しがあることも知っているはずである。

本当に、危ない行為を辞めて、こうしたもので危険行為を行わないように、呼びかける行為、またこうしたインプットされた言葉である「危ない事を辞めてください。なんでも鵜呑みにしない。何も受け取らない。何も引き受けない。何も関わらない。」と呼びかける行為は、彼らインプットしてくる側へのメッセージでもあり、私が聞いた言葉には、私自身を助ける言葉でもあり、彼らインプットする側へのメッセージでもあり、私たちは操り人間になっている危険な状態から抜け出すメッセージでもあるならば、繰り返し何度も何度も連呼して、自分の意思として、彼らへのメッセージとして言い続ける他に助かる道はない。

強制的なペラペラ脳になってしまった場合、危険状態である。
私たちは脳への直接のアクセスが可能であると言うことは、喜怒哀楽すら自由気ままに操られる。
本当に私たちは、自己があるようで、自己はない。

本当に意味がわからないだろうが、私たちは常に操られており、こうした変なものを信じれば信じるほど、意図してない方向へどんどん反れていく。

現代の社会がとんでもない事態になっていることを考えるならば、社会が悪いと考える必要がある。
とてつもなく力を得ているリーダーなどは一番信じてはならない、また私たちの現在の生活どんどん変な方向に動き、とんでもない事態になっているのであれば、私たちはとんでもない過ちをしていることに気が付いて居るはずである。

私たちは誰も信じることをせず、意見を出し合い、話し合い、何が正しい事で、間違っていることかを考えて、行動するべきである。

本当に危ないことが、これからどんどん起きる。気が付いて居る人間と気が付いて居ない者がいるが、そうした変な方向に向かっているとすれば、危険な状態であり、危険なことを好んで行う習性がある生命体が、私たちを遊び道具としてしか考えていない極めて危険で危ない状況であることを、私たちは過去の歴史から学ぶ必要がある。

危険な方向に向かうようなことがあれば、それは絶対的に誤っている方向である。

危ないことをまずは避ける選択をするべきであるにも関わらず、リスクばかりを優先して何があるのか?すら分からず突き進んでいるのが、今までの私たちの歴史である。

戦争も、原子力も、リスクばかりを優先して、何を得たのか?

本当に得たものは何もないことに、気が付いて居ない人があまりに大勢いること自体、私たちのこの世の中は危険である。


本当に危ないことを避けて、平坦でも平凡でも、常に安定した平和で、リスクの無い社会がどれだけ素晴らしいことであるか。

分かっているはずである。


危ない事を辞めるだけで、どれだけ安全を得られるか、分かっているはずである。

リスクと得られるものを天秤にかけてる行為があれ、リスクの度合いが大きければ、可能な限り避けるはずである。

危ない事をしない、危険な行為で何を得られるかを考えてみて欲しい。

戦争問題、原発問題から得たものはなんであるか?
考えたことはあるのだろうか?
どれも目先の利益だけである。

本当に愚かな行為であったという反省すらない時点で、この社会はまだまだ未熟であり、この先にあるものは文明であるのか?荒廃した世になるのか?私たちは本当に知性のある生き物であるのであれば、考えることができる生命体であるのであれば、こんな簡単なことの答えを知っていながら、何故リスクばかりを優先するのか?

その目的は、金であり、目先の利益ばかりで、本当に、愚かである。
私たちの未来は危険だらけであるのであれば、未来は無くなっていても仕方がないことである。

2016年12月14日水曜日

自らが危険分子と見なされないために

自分自身がこんな危ない行為に加担したと、標的にされるのであれば、危険分子に間違われないように訴え続けることが、回復、解放につながる方法であることは、明確である。

こんな危ない行為、面倒ごとに加担し、ビームの標的にされるよりも、自らは何も加担しないことが唯一の安全である。

そんな簡単なことの意で「受け取らない、引き受けない、関わらない」この言葉を何度も聞いたのである。


この言葉は、汎用的であり、まずは私たち側ではなく、元々は向こう側へのメッセージでもあったが、私たち側にも関わらないことへの意があるとすれば、「受け取らない」の代わりに、「真に受けない」などの言葉も伝言で聞いたことを覚えている。
もちろん、この「真に受けない」の意は向こう側の言いなりになり、変な行動をしない意であり、神の声を聴いた犯罪者にならないようにへの呼びかけであった。


ではなぜ、このような行為を行わなければいけないのか?という疑問があると思う。
既に、ずっと以前からこのような危険なビームが飛び交っているのであれば、それらを防ごうと幾ら、策を生じても、突如現れ、消えていく、亜空間を飛び越えて来るこのような摩訶不思議なものに対策などなく、無駄である。
自らが危険行為に加担した行く行為は、ビームに標的にされる格好の餌食である。

では、この加担行為とは何か?
私たちの思考そのものである。

それ以上はなく、日ごろの行い、思想、日常、素行、行動、その他諸々であるのかもしれない。
憶測ではあるが、昔の人は良く言ったことで、閻魔帳、地獄、極楽浄土、輪廻、因果応報、呪い、復讐などなど、それらとも関係なくもないのかもしれない。

この不思議なビームの存在に対して、これは何?という疑問に、そんな会話が永遠に続いていた。

とにかく、危ないことに加担しないことが、この変なビームから解放される唯一無二の方法である。

数か月から数年しばらく続くが「引き受けられない、受け取れない、関わらない」、「危ない事を辞めてください」と連呼し続ける行為の成果は出ている。

このような危ないビームから解放を願うのであれば、自らが危険分子であることをアピールする行為、言動を避けるべきである。

そして、このようなものがなんであるか?
問うのであれば、人類が歩んできた中でいくつも語り続けられている、過去の摩訶不思議な現象、言い伝えなどの歴史書を読むのが一番近道なのかもしれない。先人たちが残した記録を考えるならば、本当に宗教的なものや、自らの行いを悔い改め、真っ当に生きていくことをしなければ、生き地獄になることは間違いないのである。

本当のことを知る者は、この恐ろしさを体験したものでなければ、理解できない。
私はその恐ろしさをごく僅かしか知らない。
私は地獄の3丁目だそうで、湯加減は程よいくらいと何度も、揶揄われて笑い話で、聞いた話である。

このビームが火炎地獄の熱源にもなり得り、とんでもない黒焦げにされてしまった若者も居たり、火傷を負った子供や溶けてしまった者の映像を見たり、本当に危ないビームが飛び交っているとも聞いたことがあり、「変に清い者」もそれらの犠牲にもなっていることも聞いたことであるならば、それら危ない行為をまるで、自らが裁きを下しているような、危険行為に加担しているようなことも、また、とばっちりを受けるのも自分自身であることも警告があったのである。

とにかく危ない行為に加担しない、自らが危険分子でないこととして、伝達、伝言を正しく行っていけば、徐々に周囲も危険が無くなっていくはずである。

本当に、これらを知る者と知らない者では、人間としての思考が本当に分かれるが、人間そのものが、本当にこのテレパシーやビームによりコントロールされている可能性も考えることもできる。

本当に人間とはなんであるか?
私自身、本当に人間とは、謎であるとしかわからない。

そしてこれらのビームの正体は、何も知らない者同士、宇宙人やUMAとなぜか、ビームにより、テレパシーで結ばれてしまった感がある。

私たちの思考にインプットされてくる言葉、テレパシーのようなこのような言葉には意味があり、私たち自身への注意喚起である可能性がある。

私たちはこの言葉をまるで、自分自身の考えたことと勘違い、錯覚を起こすが、これらの言葉は明らかに外的な外からのインプットされた言葉であり、それらの言葉の意は、まず自分自身への警告と受け止めるべきである。
なぜか、そうした批判的な言葉を他人にぶつけるような行為をするおかしな現象を時々、 体験している。
他人を批判している輩は、時に、自分のことを言っているのでは?と感じてしまうことが多々あり、やはり私たち人間は、何かしらの警告とメッセージを受け取っている可能性がある。
そして、それらのインプットされたメッセージは、決して他人批判ではなく、自分自身を悔い改めるべき言葉であり、自身を悔い改めるべきである。
人を批判するのではなく、自身を正す必要がある。

そう教えてもらっていると、メッセージを受けている。
私たちは、他人を批判するよりも、自分自身を自己修正に心がけるべきである。


そんなわからない者同士が、いろいろと考えて妄想を膨らませて、無駄話をいくら重ねても、時間の無駄であり、なんの解決もなんの答えも得ることができないのが、自らの経験である。わからない者同士、数年間憶測だけで、無駄なことを考えても答えなど得ることは一生ないのである。

「永遠に解けない数学問題」と同じであるとも聞いた話である。
「色即是空」とも聞いた話である。

本当に無駄な時間を過ごすよりも、自らが危険分子でないことを訴え、解放される方法があるならば、それらを正しく、向こう側にも伝達することが、これらの危ないビームから逃れる方法であることは、私の実体験から言えることであり、現在は、それらからかなり解放され、回復に向かっている。

とはいえ、恐らくこれらの行為は死ぬまで続くかもしれない。
終わりが見えない現実ではある。

危ないビームが突如現れることが多々ある。
本当に危ない行為は辞めて欲しいと言い続けていく他に、最善の策はない。


2016年12月6日火曜日

電気がない世界。

私たちは電気ですべてが賄われている。

もしも、電気がないだけで、すべてを失うことになることに気が付いているだろうか?

電気が無ければ、それだけで、大きく退化する。

電気が狂うことを考えたことがあるだろうか?

私たちは電気を失った未来を考える必要がある。

私が恐怖体験したものに、電子機器の乗っ取り行為と、電気製品がガラクタにされる行為、そして電気製品が狂い、携帯電話すら使えない事態、そして電機で動作するあらゆるものが動かない事態を軽く、体験した。


電気がない世界を考えてみて欲しい。

ほんとに使えなるのです。
ただのゴミです。

今後、お金を使うとしたらそうした電気製品に肩入れしても仕方がないと言うことです。
私は、電気製品を買うのを控えていこうと思います。

電気を過信し過ぎるのはほどほどにしていきたいと思う。

とはいえ、電気が無い訳ではなく、使えるうちは、ほどほど使うが、しかし、突如使えなくなるリスクとういうものを考える必要がある。



原発は、冷却システムが冷却水ポンプモーターが動かなくなった時点で水をポンプアップができない。その時点ですべては制御不可能になり、あんなものはゴミ同然なのである。水圧を上げるのは水ではなく、ポンプであり、電気であることを忘れてはいけない。原発問題の冷却水循環ポンプが動かなくなっただけである。たったこれっぽちのこともできずに、この騒ぎになるのである。
もちろん、ディーゼルエンジン発電機の発電量なんかでは、当然あの巨大な施設の1/3も稼働させることはできない。そうした時点で、原子力発電をコントロールしている気になっていること自体、頭が狂っているとしか思えないのである。本当に諸刃の剣であり、電気が無ければ何もできないショボい科学力を過信する時点で、この世は終わっているに等しい。

しかし、本当に私が体験したことは、確実に起こり得る危険であり、私たち人間が狂わされることも容易であれば、機械など一瞬で壊れる。生身の私たち生命体にアクセスが可能であるなら、何でもできるのである。

このテレパシーは本当に恐ろしいものであることは間違いない。
危ない事が起こらないように祈るばかりである。
 

科学、技術が人体に向けられた時の恐怖

人体に向けられる物理転送技術一つを例に上げて、考えてみて欲しい。

本当に危険なことばかりであることが、小学生でも理解できるはずである。

多くは語らなくても考えてみて欲しい。

どう考えても防ぎようのない事ばかりである。

そんなことを得意げになって行おうとする科学は、人類を滅亡に向かわせるだけであることも容易に理解できるはずである。


私たちはそんな小学生レベルの倫理やルールすら守れない人ばかりが、こうした危険な科学や技術を、生命体に向けられ、利用されている行為に脅威を感じている。

未来のエレクトリックハラスメントは壮絶極まりない、危険行為である。

そうした科学や知的な危険行為をよく考えずに、危険行為であることを自覚しないまま、そうした危ないことをあたかも得意げになり、作っていく。

私たちの未来が無くなるとすれば、それは科学や技術が原因であることは間違いない。

こうした行き過ぎた危険な科学、技術、学問の行為を禁止して、自制、自粛するのも知的行為である。

かつて、大量破壊兵器や、化学兵器の危険技術を正しく認識して自粛してきたように、危ない行為は本当に辞めて欲しい。



これが始まったころからずっと「猿の惑星」のような明晰夢をよく見る。

以前にも書いた、ギターを持つ手長サル、丘の上に立つクマのような者、オオカミのような犬、ギズモのような者などなど、猿、犬、クマ(ネコ科?)、カエル、蛇、蝙蝠、鳥、海洋生物などなど祖先があるのであれば、違う惑星人はこうした者たちかもしれない。 


猿の惑星は何故、猿の惑星になってしまったのだろうか?

これらの脳への直接的なアクセスと、こうした行為が、猿にも適応されてしまったら、どうなるのだろうか?
私たちはこうしたことに関わっていく事、こうした向こう側への誹謗中傷、脅し、脅迫、こうした行為に対する勝手な解釈による利用、このようなことが続けば、私たち人間と言う存在そのものが、実はロボット人間から猿の惑星のよう猿との逆転に発展していく心配。

私たち人間は、進化を急ぐあまりに、猿以下になってしまう可能性。

こうしたテレパシー行為を悪用した結果、猿の惑星のような結末になる警告かもしれない。
あまりに急ぐ進化は、退化の始まりともあり、進化は私たち人間だけの力ではない、こうしたテレパシーの向こう側の知恵があるとするならば、こうしたものを悪用したり、利用しようとした瞬間に、猿とのチェンジと言う結果を招く恐れも考慮するべきである。

私たちの文明はわずか100年でここまで来たには、何らかのカラクリがあるに違いないにせよ、それらにあまりにも深く関わる事は、私たちの文明が失うことを意味するのかもしれない。
2000年以降の人類滅亡のシナリオや予言書が数多く残されているように、注意する必要がある。

こんなことを聞いたことがある。
とある天才の脳には数式が次々湯水のように入って来ると。

そうした行為が、自らの能力と過信するか、こうしたテレパシーで何故か、勝手に意味も解らずに互いが結ばれてしまった結果であるとするならば、こうしたテレパシーが猿にも適応されてしまったら、どうなるのだろうか?と言う心配と人間とサルの逆転を描いた映画「猿の惑星」はまさにこうしたテレパシーが人間ではなく、猿にシフトしてしまった場合の危険性など様々な恐ろしい結末があることを心配するべきである。

これらの行為は、ハイリスクであることを考えるのであれば、こうした行為の利用や悪用を自ら行うべきではないとある。

こうした不思議なものがあるのは昔から知られたことであるが、私たちからは積極的に関わることなく、いつも通りの生活に戻っていくチャンスがあるのであれば、私たち側から関わらないことであり、向こう側にも迷惑行為をするべきではない。

向こう側とこちら側が互いにストレスや苦痛が伴うことがあっては行けない。

私たちは関わらない、そして向こう側も関わらないことが、互いに精神的に穏やかであるのであれば、こうした行為に関わらないことである。

昔の人はこうした行為があることを知っていたはずである。

互いが安心、安全に暮らすには、安全が第一であり、危険な行為がないように祈るばかりである。


向こう側に危ない事をしないように訴え続けるのは、こうした行為が誤った方向に向かい、危険行為が続けば、本当に、とんでもない世の中になることが誰でもわかることである。

本当に安全第一、危ない事は辞めて、危険行為の無いこと、そしてこうした行為に関わる事をしない、こちら側から何も要求することないようにする、こうした行為を悪用しないことである。

人間は欲深い生き物である、神棚にお願いしたり、神社仏閣でお願いすることが多いが、そうした行為は昔からの習わしや風習であるのであれば、そうした行為とこうした能力は別であると認識して、勝手なお願いごとを、こうしたもので自らコントロールして使いこなそうとしたり、自ら向こう側に要求したりしないことである。

また、向こう側の言いなりになるような行為、行動も辞めるべきであり、本当に危険な行為であることを認識するべきであり、向こう側が何であるか?また向こう側は複数多数であり、決して一定の者ではないこと、そして、時間帯により変わっていたり、こうした行為により、自らの精神が蝕まれることを考えるならば、本当に関わらないことがどれほど楽なことかを考えるべきである。