2018年1月10日水曜日

永遠の命

現代でも、未来でも人間はきっと不老不死を目指すでしょう。
永遠の命は人類のひとつの目標でもある。
不老不死とはどういうものか?

きっと肉体は邪魔なだけでしょう。
我々の死因の原因はほとんどが体が原因です。
もしも、脳だけが生き続ければ良いだけなら、クラゲのようなものに脳を納め、酸素と血液の循環をさせれば、劇的に寿命は延びることでしょう。
そうしたときに彼らは、肉体を持たず、ゴーストとなり、私たちの社会に浸透してくるかもしれません。

しかし、別に私たちの世界に浸透しなくても、漫画のソードアート・オンラインの世界があるのもありだ。そのほうが映画マトリクスそのものだろう。

もしかしたら、私たちが永遠の魂を得ようと思えば、私たちの死後、彼らの手によって魂なる私たちの遺伝子が転送コピーされて、輪廻やゴーストになることも出来るのかもしれない。

私たちが知っている地獄、天国というものもやはり存在するのかも知れない。
本当に、私たちは何かの導きによってこの世界を構築しているとしか、思えない。

現代でも、犯罪者が多く存在する世の中に、江戸時代や刀のような刃物を腰にぶら下げていた時代、それこそとんでもない輩ばかりの、危険な時代でも、平和に人々が暮らせたのは、何かしらの導きがあったから他ならない。

 昔から地獄へ落ちる話、極楽浄土の話など、私たちの知っている多くの物語は実在するとしか思えないのが、最近の感想である。

しかし、ここに書かれている妄想じみたことも、多くの人はそうした話は一度は聞かされ、信じる信じないは別として、何故だか皆、このような情報は知っており、精一杯一生懸命にまじめに生きようと努力をしているはずである。

そしてこの妄想じみた話を聞いても、誰も驚かないし、誰も馬鹿にはしないだろう。
私の場合、このテレパシーが始まったばかりのころ、地獄の話ばかり聞かされ、私自身は3丁目とからかわれたり、天使と悪魔の話が盛んに行われていたことを思い出す。

このブログを「地獄」や「悪魔」、「天使」で検索すれば多くの過去ログがヒットするはずである。

そして、テクノロジー犯罪では、何故かいつも「創価学会」の名が出てくるのは、そうした仏教や極楽浄土の話、説教臭いことばかりだったからなのかもしれない。

とにかく私たちはこうしたものがあることを実は子供のころから教えられ、別に驚くことなく、そうした存在の有無を信じる、信じないは別として、多くの知識は共有していたのである。

まじめに生きることが馬鹿をみる世の中ではない。
そう実感している。

また生き地獄もやはり存在する。
生き地獄とはビームによる制裁はやはりとてつもない苦痛と痛み、そして死ぬことも無く、精神を蝕まれていくのである。

本当の苦しみは死んでからも続くと考えるならば、本当に恐ろしいことである。
地獄が無いなんてあり得ないのである。

本当に驚く事実ではあるが、大して驚かないのも事実である。

こうした内容を読んでいる人がどれだけ信じる、信じないは別にして、多くの知識を既に知っている人たちにとっては大して驚かないだろう。
逆に若い若年層や世間知らずの者たちがこうしたこと事実を知って己の今後の生き方をどう考えるか?
そうした人のためにもこうしたブログがあれば、道を誤ることなく、真っ当に、そしてまじめに、他人を不幸にする行為をしないように務めるように努力するほど、影響を与えられるか、否かは別にして、多くの情報を得て、考えて欲しいものである。

2018年1月6日土曜日

今でも十分凄いが、私たちの未来があるのであれば、きっと私たちの未来はもっと凄いのだろう。

私自身、何かしらの力が左右して、この世界を気づきあげてきているのではないか?と考えているが、そのことを否定し、もしも、私の考えていることとは間逆で、私たちだけの力でここまで、世界を発展させえて、文明を気づき上げたとする。

正直、どっちがどうでもいいことであるが。

この先に答えがあるとして、私たち人類がこのまま進歩し続けるならば、さまざまなことがどんどん可能になるだろう。
そうしたときに、私たちはきっと過去のことに興味を持つはずである。
もちろん未来の私たち人間が存在するのであれば、SFのような話も本当に現実になるのだろう。

しかし、その時、私たちはこの平和をどう維持させるか。
そしてこの先が無くならない努力を行うはずである。

私自身は、宇宙人と言ったが、私たち人間の未来人や時空を超えてくるものたちは皆、私からしてみれば、宇宙人である。

また宇宙に出てしまえば、みんな宇宙人である。なにも未来人は地球に居ない、月生まれや、火星生まれもたくさんいるのだろう。

本当に現代では、想像を絶するものたちである。

そして人間そのものは何なのか?
私たちの進化はこの数年程度で劇的に進化を遂げている。
そしてこうも考えることが出来る。

何故、私たちは今まで出来なかったことが出来るようになったのか?
何かしらの力が左右しているのではないか?

しかし、そんなおとぎ話や推測ばかりしていても仕方がない。

私たちは過去から現在、そして未来、今後もこのようなことが永遠に続く限り、世界は続いていることを意味している。

そしてこれまで、記録されている、文献、宗教、悪魔や天使などの空想話、地獄や天国、死後の世界、そして輪廻、因果応報、そんな与太話も実は満更ではない気がする。

記録に残された意味がある。

そして私たちは現代に生きるのであれば、今の世界でどう立ち回るか、平和にこの世界が永遠に存在するためには、どうすればいいのか?

そんなことはこれまで、たくさんの説教を聞いた通りであり、歴史を振り返れば、私たちの行い方は明確である。

日本人として、私が教わった生き方。
それは次の通りである。

国民の義務
学び、労働し、納税する。

そして法律を遵守し、法と秩序を守ること。
決して危険行為を行わない。

そして日本人であれば、誰に教わったわけでもないが、必ず知っている。
108煩悩である。
108つの除夜の鐘である。

そんな当たり前のことを行えば良いだけで、未来は平和で安心な社会が形成されていく。

特に特別なことをしなくても良い。

私自身、人に説教をするほどのものではない。
この向こう側の者に、釈迦に説法とも言われたことがある。

とにかく何を言っても無駄であり、何を問い、何かを競っても、現代の私たちには分からないことだらけである。

教えられたことは、へんなことに関わらないこと。
受け取らないこと、余計なことをしないこと。
へんなことを引き受けないことである。

テレパシーは本当に時折、へんなことを言うときがある。
あるものは、隣に居るものの振りをして、独り言のように文句言ったり、私たちをけなしたり、おちょくったり、へんなことを言ってくることもある。

そしてそうした行為を真に受けることそのものが、危険な行為であり、私たちのことを試したりもするとも言う。

私たち自身が危険人物であるか、否かを試しているのかもしれない。

本当に、意味がわからないことが続くこともあるだろう。
しかし、教えられたことを守り、いつも通りの生活を続けていくしかない無いのである。

私自身の今までの人生は何一つ知らない、気が付いていない人生であった。
しかし、残りの人生は、何かに気が付いた人に変わったが、この先も気が付いているが、正直、何も知らないほうが楽な気がしてならないので、知らずに無視して行く他に無い。

本当に、気にすることは、関わることを意味する、そしてそんな幻聴に翻弄され、苦しみを与えられることは真っ平御免である。

本当に何のことは意味が分からないが、これまで通り、普通に生きていくだけである。

2018年1月3日水曜日

宇宙船に手を振って乗り込む人たち、山積みのスーツケースそしてその後

私が見たというのは、実は夢だけで見たわけではない。
夢となって記憶するものもあれば、それ以外に起こっていたことである。
起きていても、目に見えるのである。
それは、頭に描くようなイメージとは違う。目に見えるのである。

現在は、声も小さく、そうした目には写るものが無くなり、ほっとしているが、5年前のこれが始まったばかりのころ、とんでもないことばかりが起こっており、とても信じてはもらえないことばかりが、現実社会とリンクして起こったのである。リンクと表現するほかに無い。

このことを書くのは初めてではあるが、見たことをありのまま記録する。

そして誤解されないように、私の血液検査の結果表をこのブログにアップしたいくらい変な薬物も薬のようなものも行っていない。まあ何を思われても良いが、とにかくありのまま記録する。

覚えている限りでは、私の意識はあり、いつものようにベットに横たわっているとき、机に座っているとき、さまざまな現象が見えるのである。

見えるといっても現実社会のいつもの自分の部屋に居ながら、何故かミニチュアのようなものや、透明ではあるが、容が見えるのである。
なんだか不思議な言葉では言い表せないことだが、見えるのである。
色はない。なんと言えばいいのか、無色透明ではあるが、見える。

 私のことをどう思うか、そんなことはどうでもよく、私が経験したことをありのまま記録しておく。

何度も書いたが、宇宙船に乗り込む人の中には女性が居た。
誰かに会いに行く様子。しかし、ぼーっとしており、思考能力もなく、何の危機意識もない人や、手を振りながらノリノリで乗り込む様子、そんな宇宙人のような人間のような人でもあった。また別のシーンではそうした宇宙船のようなところにスーツケースがたくさん置かれており、子供は親についていくほか無いが、実は行きたくない様子。

そしてそうした行為そのものが危険であること。
私たちは人間社会は差別の塊である。同じ国の中でも、学歴や職業で、上下関係をつけたがり、差別し、見下したり、ののしったり、平気で行うのである。

そして私たち人間は野蛮であり、私たちは常にからかわれ、サルの鳴き声を聴かされ続け、アホ子と常に馬鹿にされながら行き続けるという。

彼らは相当のIQを持ち、私たちは彼らとは全く足元にも及ばないなか、行き続けることになる。

彼らとの対立や、彼らとの子供たち、いわゆるハーフと呼ばれる人たちは更なる迫害を受け、差別の対象になる。はやり危ないことをするのは、互いがあまりに異なる種の場合、とんでもないことをするのは、お互いの危険分子たちであり、どんどん危険な行為が行われ、そして私たちの社会は文明とはいえない、ただの輩の群れと化した、欲望と本能だけで生きる馬鹿ばかりの危険な社会に変貌していく。

 私が生きたこの社会には別のものが存在するが、そうしたものは実はテスト的に私たち人間とは別の社会とが重なるように、別のものたちが仮想的に形成した、目に見えない社会が存在するが、しかし、それが現実になることはない。

あくまでもテストとして人間と文明を共にしたときに起こりうる危険性を把握するためにあるといわれている。

私が繰り返し、書き続ける、「関わらない、引き受けない、受け取らない」この言葉は私たちが他の文明と関わることの危険性、何かしらを受け入れたときの危険性、何かしらを交わったときの危険性、そして危ないビームとの関係、このようなリスクしかない危険なことばかりを私自身は聞かされ、見せられ、そしてビームの餌食となり、危険な目に遭い続けたことを身を持って経験して、とてつもない痛みと苦しみ、そして苦痛を受け続けたため、私は「関わらない、引き受けない、受け取らない」と頑なにこうしたものを拒み続けている。

私が体験したことの中に、こうしたビームは悪意あるものが、この力を使いとんでもないことを仕出かしてからが、地獄と化す。そして偽者の知識人たちと学者たちがこの世を謝った方向へ向かわせてからが、この先にある危険なことばかり起きる文明とは程遠い、社会を形成していくことになる。


ビームは全てを不幸にする。何もかも無くなり、そしてやがては何も残らない。それは核兵器と同様に全てを無にしてしまうもののひとつであるという。

危険なことに関われば、我が身の命どころか、他人をも巻き込み、不幸をもたらしてしまう。危険なことに、関わらないこと、そして引き受けないこと、そして何も受け取らないことは、何故か、学者に向けられた言葉でもあった。
こうしたものを好奇心だけで、真実を求めて、研究し、どんどん危険なものを構築して、開けてはならない、パンドラの箱のような私たちを絶滅に導くものを、追い求める行為を続けてからが、危ないことの始まりとある。
そうした行為を行ってしまった研究員の話、そしてやはり研究職への憧れと地位などの欲望だらけの欲ボケ、色ボケ連中には要注意の話が永遠に続いたのである。

欲ボケ、色ボケにより未来は絶望と化す話が永遠と続いたこともあった。

私が聞いた単語で2018年と言うものが何故か、とても近く、そしてとても危ないことが起こる年であることでとても印象的であった。

とにかく何事にもいつ時、いつの時代も、色ボケ、欲ボケで足元をすくわれないようにしなければ、この世界はとても脆いとある。

何か分からないが、自分だけの問題ではなく、全てはつながっており、こんなブログに何を書いても何を言っているのか?という戯言にしか思われていないのも事実であるが、本当に危険なことに関わらないこと、そして何も引き受けないことが身を守る方法であることは確かなことである。

そして何故、私が?
こんな目に遭わなければいけないのか?
そんな疑問ばかりであったが、どんな危険な社会であれ、世界が存在しており、その社会がどんなに危険であれ、普通に生活を営んでいたとするものが存在して、いきなり存在の危機となった場合、それが私たちのような関わらないことから発生した場合、私自身がかれらの脅威となることも考えられる。

じつに複雑ではあるが、私がそうした訴えを実施したことで、社会が変貌してしまい、無くなってしまう未来もあるということである。

実に脆く、ちょっとした変化で大きく舵が変わってしまうとすれば、そうした理由から私自身が彼らから迫害され、攻撃対象となったのかも知れない。
しかし、私はいきなり攻撃対象になり、何も分からず、いきなり強力なビームの的となり、迫害を受けたのである。

そこには、私自身、このようなことに一切、気が付いておらず、何もしなかったことそのものが攻撃対象になったことも考えることが出来る。

とにかくいきなりとんでもない目に遭わされ、本当に不思議なものに翻弄されたときでもあった。

とにかくこの幻聴や音響や周波数が突如亜空間から湧き出してくるこのようなもの、そのものが危険なものであり、とんでもないものであるのは事実であり、このことに関わらない、引き受けない、何も受け取らない。そうした知識や理論、法則などに関わらない、引き受けない、受け取らないことが自分のためであることは事実であり、そうして置けば、このビームが消え、安息と平穏と災いが去っていくことは間違いの無い事実である。

元東大教授が長い間、このビームに拘束され、とても悩んでいた話も聴いた。本当に意味がわからないが、そんな話ばかりされていた時期もある。

本当に関わらないことであり、聴かないこと。そのときに三猿のことも記録している。

深くは聞かないことであり、見ないこと、そして言わないことである。
ここに書かれている私自身の話はたいしたことではない。

このビームと言う、音響が亜空間から突如現れて消えるものの追求や、想像を絶する数々のものの追求をしたときに、何かが変わり、そして最後には何も残らないという最後だけは知っておく必要はあると、これが始まったばかりのときにしつこく聞かされた話である。とにかく危ないことの連続だった。

しかし、今もなお続いていることを考えるならば、いい続けていく他になく、こういう行為は、過去から続いているものであれば、この先もあり続けるのであろう。
とにかく危ないことは避けて、面倒ごとに関わらないことが、災いを避けて通る、最も簡単な方法であることは明確である。

2018年1月2日火曜日

本当に謎だらけで、恐らく一生分からない謎のものである。

昔から言われている神様や仏様に供える、お供え物。

そんなものが必要なんだろうか?
もし、そのようなものが必要だとするならば、この世に私たちと同様に、存在して、そうした食べ物を必要とする人たちがいるということになる。

お供え物についてなぜ、そのような行事が続いているのだろうか?

そして私たちはそうしたものを用意した方が良いのだろうか?

お供え物は食べ物であるが、そうしたものをわざわざ用意して何故、神棚、お仏壇にささげるのだろうか?

本当に謎であるが、そういう風習がわが国だけではなく、信仰心の強い国では今も続いている。

話は変わるが、私自身の体験を述べるなら、お供え物というものは意識したことは一切無いし、お供え物を用意したことも無い。
ばあちゃんが、お仏壇に毎日ご飯を上げて、おせんべいなどのお菓子を置いていたくらいはあるが、私自身は一切、そうした行為を行ったことは無い。

しかし、よく言われていたことと、私自身が経験したことの中で、こうした行為が始まってからは、なぜか、食べ忘れてしまい、捨ててしまう食べ物が多くなったのも事実である。

食べないでお供え分だけ別途残して置くという行為を何故か、行われており、冷蔵庫の中の食べないものや、食べ忘れてしまったもの、そうした食べ物に執着する行為もこのテレパシーの言葉から良く聞いたことである。
しかし、何故、この世にある物質をどうして欲しがるのだろうか?

もしも、この世に見えない何かが存在する、又はこの世のものを転送している、又はこの世のものを必要としているとするならば、この世にある食べ物はスーパーマーケットに行けば幾らでも手に入るはずである。
山に行けば美味しい果物や木の実、きのこや山菜など食べるものは幾らでもある。
農園畑に落ちてしまった果物はたくさんあるのである。
よくその落ちた桃などの下にカブトムシを取りに行ったものである。
毎日ほぼ捨てられている量が大量に出ているはずである。
そうしたものを、無断ではあるが、食べていればいいはずである。

しかし、お供え物にこだわるのはなんだろうか?
また個人個人から受け取る、又はお供えのものしか受け取らない理由があるのだろうか?
そしてそうした供えられるものに腐敗や、賞味期限や、鮮度といったものも存在しないのも事実である。
お仏壇に上げられたお米は1時間もすればカチカチである。
生ものであれば、常温で一日置けば 腐ってしまうものであるが、何故かそうした行為が続いている。そんなものを必要としているとは、到底思えないにも関わらず、絶えず続けている風習がある。

そして、そうしたお供え物に美味しいものはほとんど無いのも事実である。
いつも米や饅頭、古いものや、お正月で言えば、鏡餅である。
最低限のものばかりで、チョコやアイスや人間がいつも食べている美味しいものが供えられていることはほとんど無い。

もしも、先ほど書いた必要とするものが居たとして、そうしたものを転送しているとするなら、無限に美味しいものを増殖させることも可能なはずである。転送が可能なら、コピーは可能だろう。

本当に謎だらけであるが、私自身、そうした行為を、私自身、今後どうすれば良いのか?考えていたところ、結局、あーそれ僕が食べたかったのにーと言う言葉や、それも食べたいという意味のわからない言葉が聞こえて来たときに、私自身、何も口に出来なくなることを意味している。
そうしたときに、やはりこの言葉に翻弄されて、この見えないものに関わることを意味して、とても危険なことを意味しているのであれば、今までどおり、何も気にせず、何も考えずに、関わらず、引き受けず、お供え物などしない、いつも通りの意識しない生活に戻る必要がある。

お供え物や信仰心がない私にとって、とても不思議な出来事でもある。
中世やインドでは、パンや食べかすを業と床に落として食べたとあり、そうした行為も一種お供え的なものといわれたこともある。

しかし、私たちが捨てているものを本当に欲しがるのか?
私たちが食べ残したカップラーメンの汁など誰が欲しがるのか?
もしも、食べ物を必要としているのであれば、もっと極上のものを食べに行っているに違いないはずである。

そんなことを気にするだけ無駄なことである。
パンくずや、カップラーメンの残り汁なんぞ誰もいらないというのが答えである。
食い残しなんぞ誰が欲しがるのか?誰がどう考えてもへんな話である。

とにかく意識せずとも、何故か彼らは私たちの食べ物を欲しがるときがあるが、本当に謎である。食べずに捨ててしまうものが増えてしまったのは事実である。忘れてしまうのか、私自身がこうした行為の恩恵にあやかっているのか?本当にこの行為が何なのか?本当に謎だらけである。全く意味がわからないが、昔からあるものであることは間違いないことである。

とにかく、危険なことがないことを祈るばかりである。
教えられたことは、関わらないこと。そして何も引き受けないこと、受け取らないこと。
とにかく危険や災いが無いように、こちらから関わらないことである。