私が見たというのは、実は夢だけで見たわけではない。
夢となって記憶するものもあれば、それ以外に起こっていたことである。
起きていても、目に見えるのである。
それは、頭に描くようなイメージとは違う。目に見えるのである。
現在は、声も小さく、そうした目には写るものが無くなり、ほっとしているが、5年前のこれが始まったばかりのころ、とんでもないことばかりが起こっており、とても信じてはもらえないことばかりが、現実社会とリンクして起こったのである。リンクと表現するほかに無い。
このことを書くのは初めてではあるが、見たことをありのまま記録する。
そして誤解されないように、私の血液検査の結果表をこのブログにアップしたいくらい変な薬物も薬のようなものも行っていない。まあ何を思われても良いが、とにかくありのまま記録する。
覚えている限りでは、私の意識はあり、いつものようにベットに横たわっているとき、机に座っているとき、さまざまな現象が見えるのである。
見えるといっても現実社会のいつもの自分の部屋に居ながら、何故かミニチュアのようなものや、透明ではあるが、容が見えるのである。
なんだか不思議な言葉では言い表せないことだが、見えるのである。
色はない。なんと言えばいいのか、無色透明ではあるが、見える。
私のことをどう思うか、そんなことはどうでもよく、私が経験したことをありのまま記録しておく。
何度も書いたが、宇宙船に乗り込む人の中には女性が居た。
誰かに会いに行く様子。しかし、ぼーっとしており、思考能力もなく、何の危機意識もない人や、手を振りながらノリノリで乗り込む様子、そんな宇宙人のような人間のような人でもあった。また別のシーンではそうした宇宙船のようなところにスーツケースがたくさん置かれており、子供は親についていくほか無いが、実は行きたくない様子。
そしてそうした行為そのものが危険であること。
私たちは人間社会は差別の塊である。同じ国の中でも、学歴や職業で、上下関係をつけたがり、差別し、見下したり、ののしったり、平気で行うのである。
そして私たち人間は野蛮であり、私たちは常にからかわれ、サルの鳴き声を聴かされ続け、アホ子と常に馬鹿にされながら行き続けるという。
彼らは相当のIQを持ち、私たちは彼らとは全く足元にも及ばないなか、行き続けることになる。
彼らとの対立や、彼らとの子供たち、いわゆるハーフと呼ばれる人たちは更なる迫害を受け、差別の対象になる。はやり危ないことをするのは、互いがあまりに異なる種の場合、とんでもないことをするのは、お互いの危険分子たちであり、どんどん危険な行為が行われ、そして私たちの社会は文明とはいえない、ただの輩の群れと化した、欲望と本能だけで生きる馬鹿ばかりの危険な社会に変貌していく。
私が生きたこの社会には別のものが存在するが、そうしたものは実はテスト的に私たち人間とは別の社会とが重なるように、別のものたちが仮想的に形成した、目に見えない社会が存在するが、しかし、それが現実になることはない。
あくまでもテストとして人間と文明を共にしたときに起こりうる危険性を把握するためにあるといわれている。
私が繰り返し、書き続ける、「関わらない、引き受けない、受け取らない」この言葉は私たちが他の文明と関わることの危険性、何かしらを受け入れたときの危険性、何かしらを交わったときの危険性、そして危ないビームとの関係、このようなリスクしかない危険なことばかりを私自身は聞かされ、見せられ、そしてビームの餌食となり、危険な目に遭い続けたことを身を持って経験して、とてつもない痛みと苦しみ、そして苦痛を受け続けたため、私は「関わらない、引き受けない、受け取らない」と頑なにこうしたものを拒み続けている。
私が体験したことの中に、こうしたビームは悪意あるものが、この力を使いとんでもないことを仕出かしてからが、地獄と化す。そして偽者の知識人たちと学者たちがこの世を謝った方向へ向かわせてからが、この先にある危険なことばかり起きる文明とは程遠い、社会を形成していくことになる。
ビームは全てを不幸にする。何もかも無くなり、そしてやがては何も残らない。それは核兵器と同様に全てを無にしてしまうもののひとつであるという。
危険なことに関われば、我が身の命どころか、他人をも巻き込み、不幸をもたらしてしまう。危険なことに、関わらないこと、そして引き受けないこと、そして何も受け取らないことは、何故か、学者に向けられた言葉でもあった。
こうしたものを好奇心だけで、真実を求めて、研究し、どんどん危険なものを構築して、開けてはならない、パンドラの箱のような私たちを絶滅に導くものを、追い求める行為を続けてからが、危ないことの始まりとある。
そうした行為を行ってしまった研究員の話、そしてやはり研究職への憧れと地位などの欲望だらけの欲ボケ、色ボケ連中には要注意の話が永遠に続いたのである。
欲ボケ、色ボケにより未来は絶望と化す話が永遠と続いたこともあった。
私が聞いた単語で2018年と言うものが何故か、とても近く、そしてとても危ないことが起こる年であることでとても印象的であった。
とにかく何事にもいつ時、いつの時代も、色ボケ、欲ボケで足元をすくわれないようにしなければ、この世界はとても脆いとある。
何か分からないが、自分だけの問題ではなく、全てはつながっており、こんなブログに何を書いても何を言っているのか?という戯言にしか思われていないのも事実であるが、本当に危険なことに関わらないこと、そして何も引き受けないことが身を守る方法であることは確かなことである。
そして何故、私が?
こんな目に遭わなければいけないのか?
そんな疑問ばかりであったが、どんな危険な社会であれ、世界が存在しており、その社会がどんなに危険であれ、普通に生活を営んでいたとするものが存在して、いきなり存在の危機となった場合、それが私たちのような関わらないことから発生した場合、私自身がかれらの脅威となることも考えられる。
じつに複雑ではあるが、私がそうした訴えを実施したことで、社会が変貌してしまい、無くなってしまう未来もあるということである。
実に脆く、ちょっとした変化で大きく舵が変わってしまうとすれば、そうした理由から私自身が彼らから迫害され、攻撃対象となったのかも知れない。
しかし、私はいきなり攻撃対象になり、何も分からず、いきなり強力なビームの的となり、迫害を受けたのである。
そこには、私自身、このようなことに一切、気が付いておらず、何もしなかったことそのものが攻撃対象になったことも考えることが出来る。
とにかくいきなりとんでもない目に遭わされ、本当に不思議なものに翻弄されたときでもあった。
とにかくこの幻聴や音響や周波数が突如亜空間から湧き出してくるこのようなもの、そのものが危険なものであり、とんでもないものであるのは事実であり、このことに関わらない、引き受けない、何も受け取らない。そうした知識や理論、法則などに関わらない、引き受けない、受け取らないことが自分のためであることは事実であり、そうして置けば、このビームが消え、安息と平穏と災いが去っていくことは間違いの無い事実である。
元東大教授が長い間、このビームに拘束され、とても悩んでいた話も聴いた。本当に意味がわからないが、そんな話ばかりされていた時期もある。
本当に関わらないことであり、聴かないこと。そのときに三猿のことも記録している。
深くは聞かないことであり、見ないこと、そして言わないことである。
ここに書かれている私自身の話はたいしたことではない。
このビームと言う、音響が亜空間から突如現れて消えるものの追求や、想像を絶する数々のものの追求をしたときに、何かが変わり、そして最後には何も残らないという最後だけは知っておく必要はあると、これが始まったばかりのときにしつこく聞かされた話である。とにかく危ないことの連続だった。
しかし、今もなお続いていることを考えるならば、いい続けていく他になく、こういう行為は、過去から続いているものであれば、この先もあり続けるのであろう。
とにかく危ないことは避けて、面倒ごとに関わらないことが、災いを避けて通る、最も簡単な方法であることは明確である。
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